失恋
作家:渋谷良一
ショートショートの広場4
講談社文庫
1992年9月15日発行


女にふられた青年が、夜のバーで酒を飲んでいた。会社にはいってから、ずっとあこがれていた女に失恋したのだから、青年の悲しみははかりしれない。
そんな青年に、となりにいた紳士が声をかけた。
「どうしたんです。もしよかったら、お話をきかせてくれませんか。人に話せば、少しくらい気がらくになるもんですよ。」
青年は苦笑いして言った。
「みっともない話ですが、今日、失恋しましてね」
「そうでしたか……」
紳士は口をとざした。
しばらくして、
「じつは私、ある製薬会社の研究室につとめてましてね。おもに老人性痴呆症の薬をつくってるんですが、つまり、もの忘れをなおす薬です。でも逆にもの忘れを進める薬もあるんです。」
「それはどういうことですか」
「失恋だとは思いますが、あなたみたいに失恋して、その悲しみを忘れるために酒を飲む。でも、それでは体によくありません。そこでわれわれが開発したのが、この瞬間忘却薬です」
紳士はかばんからその薬をとりだした。
「この薬を飲めば一瞬にして、いやな思い出をきれいさっぱり忘れることができます」
「本当ですか」
「ええ、本当です。この薬をあなたにさしあげますから、くよくよしないでください」
「ありがとうございます……」
男はその薬をもらって帰宅した。
そして、薬を飲んで寝だ。
翌日はさわやかな休日であった。
青年は街にでた。
昨日は薬がきいたせいか、青年の心の中には、もう悲しみはなかった。
街は活気にあふれていた。
もう、あの女のことは忘れよう。ほかに、いくらだって女の人はいるわけだし……。
青年は人通りをながめながら、そう思った。
よーし、ひとつガール・ハンドでもやってみるか。
もちろん、青年はまだかつてガール・ハンドなんてやったことがない。
青年は、あたりをうかがった。
ちょうど、青年の前をひとり女が歩いていた。
後姿ではあるが、髪の長いやせた女だった。服のセンスもいい。
あの女にきめた。顔なんてどうでもいいや。とにかく、声をかけてみよう。
青年は女に近づいた。
「あのう、もしよかったらお茶でもどうですか」
女はふりむいた。
きれいな女だった。
しかし、青年の顔は青ざめ。
女は言った。
「あなたもしつこい人ね。あなたの気持ちはうれしいけれど、昨日ちゃんとおことわりしたはずよ。もうこれ以上、あたしにつきまとわないで」

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